CBS Magazine vol.5
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Cutting-edge Research「なにやら難しそうな名前ですが、どんな技術なのですか。」「まさに運命の出会い!それで基礎研究に進もうと思ったのですか。」「どのような留学時代でしたか。」と昼夜ずっと考えていた。当時はPubMed*2のような検索システムはなく、製本論文をひたすらめくる作業を続けていました。その過程で、蛍光共鳴エネルギー移動(FRET)という技術を熱く紹介する総説に遭遇しました。蛍光色素は、ある波長の光の吸収によって励起エネルギーを獲得し、その状態においてより長い波長で発光を起こします。ところがある条件を満たす二つの蛍光色素分子があってそれらが近接する時、片方に光を当てると、その励起エネルギーが移動してもう片方から発光が起こる現象が観察される。これがFRETです。その総説は「FRETは分光学的定規」というタイトルで、1978年にルーベルト・ストライヤーによって著わされたもの。読みながら体中の筋肉が震えるのを感じました。当時僕は生化学を勉強するのに「ストライヤーの生化学」*3を使っていて、同一人物と知ってまたびっくり。周りにFRETを知る人は全く見つからず、ますます愉快な気分になってどんどん分光学にのめりこみました。大学院は大阪大学タンパク質研究所の御子柴克彦先生の研究室で、IP3受容体というカルシウムチャネルの構造と機能について調べました。1980年代後半のことです。転写以外にも生命現象のいろんな場面で、タンパク質の相互作用や構造変化に基づく動的な現象が起こることを学びました。そして1991年、僕を驚愕させる論文がネイチャー誌に発表されました。後にわが師となるロジャー・ツェーンの研究室からのもので、FRETを使ってサイクリックAMP(cAMP)とよばれる細胞内情報伝達分子の動態をリアルタイムに可視化したという内容でした。cAMP依存的タンパク質相互作用にFRETを応用する図が目に飛び込んできて脳髄が痺れました。ただ、古典的な蛍光化合物が使われており、この標識作業は途方もなく大変に違いないと想像できました。そうしてついに1994年を迎えます。GFP*4がデビューした年です。遺伝子工学で自在にタンパク質を蛍光標識する時代が到来しました。低温室にこもる必要はないと悟って思わず小躍りしました。神に導かれるようにサンディエゴ留学を決めました。こうして、1995年の秋、晴れてツェーン研究室でFRETとGFPのマリアージュに着手したのです。様々な困難と格闘した留学時代でした。公の研究テーマはIP3のセンサー開発でしたが早々と難行、七つのマル秘プロジェクトを並行して進めました。結局その中の一つカルシウムセンサー開発がうまくいった。ロジャーはすごく頭がきれるけれどそのぶん一風変わったところがありました。何かに集中する彼に話しかけるのは本当に難しかった。そんな時は、レターサイズの紙一枚に印刷した画像データをぺたんと貼って、彼の書類の山のてっぺんに置いたものです。なるべく興味を引くコメントをつけて。「こんなん出たけどどう思う?」「これを見る限り誰それの論文の結論はおかしい!」などと。しばらく経つとロジャーがおもむろに近寄ってきて、思う存分にディスカッション!というハッピーエンド。一般にFRET技術は異なる色の蛍光色素ペアを必要とします。緑色以外のGFP変異体の開発に従事しながら、そして様々な人々から支援を受けながら、FRET三昧の日々を過ごしました。自作のFRETプローブを用いて培養細胞で起こるカルシウム振動を初めて検出したときは感無量でした。「すべてが遺伝子にコードされる蛍光カルシウムプローブ(Genetically Encoded Calcium Indicator:GECI)」の第1号を「カメレオン」という名前を付けてネイチャー誌に発表しました。1997年の夏でした。その頃、ルーベルトはロジャーと一緒にSenomyxという会社を立ち上げており、その関係であるときツェーン研究室を訪れていた彼がニコニコしながらやってきて、「ストライヤー生化学(第4版)」の裏表紙にとても気合の入ったサインを書いてくれました。「光と生命」に関する君の研究の未来に幸あれ!と。

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