CBS Magazine vol.5
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「子どもの頃から科学が好きでしたか?」「博士課程はイギリスで学んだのですね。」実は、そうでもないんです。私は香港で育ちました。香港というと、とても近代的で国際的な都市の暮らしを想像するかと思います。香港の裕福な地区はそうですが、私は労働者階級の家庭で育ちました。父は建設現場の作業員、母はホールスタッフでした。4人兄弟の末っ子で、小さなアパートに住んでいてけんかばかりしていたので、言葉を覚えるのは早かったと思います。小さい頃、暗記が本当に苦手でした。原理は理解しているのに、なぜ九九表を暗記する必要があるのか、先生と言い争ったのを覚えています。先生は、暗記しないと計算するのに時間がかかると言いました。テストの時に、本当に時間がかかると分かったのですが(笑)字を書くのも苦手でした。ですから、まずまずの成績でしたが優秀ではありませんでした。クラスで人気のあるタイプではありませんでしたし、人付き合いが苦手でした。スポーツも得意じゃない。音楽を少しやっていましたが、仲間に囲まれるほど上手でもない。学校に行くのは楽しくないし、むしろ行きたくなかった。私の記憶が正しければ、香港の旧教育制度では、15歳で共通試験を受けることになっていました。生物でC、化学でD、数学でCという結果でした。先生に、これ以上理系の勉強を続けるのは無理だと言われ、転校しました。転校した学校では経済学と経営学を少し学びましたが、職業訓練を受けているようなもので、好ましい進路ではなかった。事務員になるためのカリキュラムだったので、会計学なんかも勉強するんです。16歳か17歳の時、勉強をしなきゃいけないと思うような出来事がありました。1990年代、多くの中小企業が電子化を進めていた時代です。親戚のコンピュータシステムをセットアップするアルバイトで、お金を稼いでいました。そこで、働くということは学校よりもずっとストレスの多いものなのだと実感したんです(笑)責任があるしサボれない。ミスをしたら怒鳴られる。もう一度勉強したいと思うようになり、本当に一生懸命勉強してかなり良い成績を取って、大学に進学するための奨学金を獲得しました。当時の香港政府下では、労働者階級出身の学生を対象としたローンや助成金が充実していました。私も奨学金の他に政府の補助金も受け取ったので、自分の生活費もまかなうことができました。大学では哲学を専攻し、心理学や言語学も少し勉強しました。私の生い立ちは、科学者としては珍しいかもしれません。オックスフォード大学の大学院生に与えられる、ローズ奨学金を獲得したからです。この奨学金は、イギリスが帝国主義だった時代からある古い奨学金です。でも、オックスフォード大学院の哲学研究科は競争が激しくて入学できませんでした。英語力が足りないと思われたのでしょう。英語圏の平均的な学生と比べると読むのが遅かったし、話すのも今ほど流暢ではありませんでした。それで、奨学金をあきらめて別の大学で哲学を学ぶか、奨学金をもらって他の勉強をするかという選択を迫られました。私は哲学の中でも心や意識について関心がありました。人間の心はコンピュータとどう違うのか、人間はロボットと同じなのか、形而上的な精神はあるのか、意識はどこから来るのか、といったことに興味があったので、脳の研究をしたいと思ったのは自然な流れでした。オックスフォード大学院で指導教官のディック・パッシンガム教授と出会って、脳科学の研究を始めました。奨学金が3年間しかなかったので、博士号を取るには時間が足りないだろうと思っていましたが、ものすごく努力して期間内に博士号を取得しました。若くして博士号を取ったことでとても競争心が強い人のように思われてしまうのですが、奨学金が3年間しかなかったからというのが本当のところです。博士号を取ったのは25歳のときでした。その頃、哲学に戻りたいという思いをあきらめきれずにいましたが、パッシンガム先生に言われたことがとても印象に残っています。最後の教え子の一人だから科学の世界に残って欲しい、と先生は言いました。でも、それは先生の問題であって私の問題じゃない(笑)続けて先生は、哲学に寄与するには本当に優秀でなければならない、と言いました。それに対して自然科学の世界では、傑出した存在である必要はない。科学者は実験を行う。理論が間違っていても考え方が間違っていても、エビデンスを蓄積するというプロセスに貢献している。エビデンスは決して消えることはない。それゆえ、平均的な科学者であっても十分に科学に貢献できる。先生はブラック・ユーモアのセンスがあって、「この話の意味するところは、自分のことを考えてみろということだ。優秀である可能性よりも、平均的である可能

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